いつでも心の写真は色あせないものですね
一昔前までは、写真は現像するものでした。
フィルムを現像に写真屋さんに持っていき、写真になってどう写っていたのか初めてわかるのです。
やっぱりぶれてしまった、とか、思いの外うまくとれている、などとその場で初めて分かりました。
今考えると、随分面倒なことをしていたようにも思えるのですが、一方では、今では味わえないワクワクがあったようにも思います。
今はカメラにモニターがついています。
撮影した瞬間にうまくとれたかどうか確認できるのが当たり前になりました。それどころか、モニターに写り具合を確かめながら撮影できる、いわゆる自撮りも大流行です。
自撮り棒なるものも、時々見かけます。本当に時代は変わりました。
うまく写っていなければ、すぐに現像などの費用は一切考えずに撮り直すことができます。
とても便利なのですが、写真の持つ価値は、何となく減少してしまったかもしれません。
もっと昔は、白黒写真でした。
そう聞いていますし、祖父母の頃の写真は、正装して家族の集合写真が撮られるほど、とても貴重なものだったと聞いています。
ですから、なんだかとても立派な姿で写っています。
今、変顔、とか、バカな写真をとり、またSNSにアップしていることを思うと、どれだけの差か思い知らされます。
ところで、今はカメラ本体を所持していない人も多い、または主流かもしれません。
携帯電話、スマホ、タブレットで撮影しているからです。
私もそうです。
もう少なくとも5年以上、それらとは別のカメラ機器を持っていません。時々、カメラ本体で写真を撮っている人ももちろん見かけますが、圧倒的に全体からすると少ないように思います。
現像と呼ばれていた一行程も、家庭のプリンターで、あるいはコンビニでも簡単にできるようになりました。本当に便利です。
アルバム、という写真を納めておく物、そしてその文化も大きく様変わりしているのを感じます。
私自身、幼い頃の写真を実家のアルバムに、時系列に収まっています。
透明フィルムを薄くはがして、写真を貼り、横に付箋などが貼られコメントが書き込まれています。
しかし、これも少なくとも5年以上は手元にアルバムを新調しなくなりました。その代わり、コンピューター上でデータとして写真を持ち運んでいます。一回、まるごとデータを操作ミスから消してしまったこともあります。
そのときは、一時期の記録画像がすっかり消えてしまい、寂しい思いをしました。
このように、すっかり時代で様変わりした写真の文化ですが、いつでも心の写真、思いでは変わらないものですね。